主のご復活

私は、昨年の聖土曜日(2021年4月3日)に府中教会にてアンドレア神父様により洗礼の秘跡に与りました。この度、この一年を振り返り、更に分かち合いをさせていただく機会を与えていただけたことに心から感謝いたします。

私がイエスに従うこの道を知ったその時は、コロナ禍に入って間もない時期でした。あらゆることに制限の多い時期であり、洗礼は狭き門に見えました。ですが、他の影響を受けやすく、誘惑に惑わされやすい私には、その制限がかえって私に相応しい信仰生活の出発であったように思います。

2020年の夏から府中教会に通わせていただくようになりました。そのうちに、奉仕活動に参加させていただけるようになりました。

洗礼前から、教会内外での講座や教会での奉仕活動、信徒の方々との関わりから、多くを学ぶ機会に恵まれたことはとても幸せなことでした。受洗後は、更に多くを与えられ、抱えきれないほどの恵みに感謝の思いが尽きません。

私のこの一年の様々な経験は「祈りを感じる」ことの積み重ねであったように感じています。

信仰生活に意識を向けるようになり、少しずつ祈ることが増えていきました。それまでの私が思う祈りとは、「主の祈り」などの日々の祈りや祈願でした。しかし、教会内外の講座や教会活動を通して、今まで私が認識していた祈りは、その一側面でしかないことに思えてきました。

日々の祈りや祈願は、初心者も迷うことなく祈れるため、とても助けになります。そして、祈れば祈るほどに、美術作品のように豊かに美しくなっていく思いになります。その言葉のひとつひとつが、その時々の糧となり、勇気となり、優しさや心の支えになっていくように感じます。

そのうちに「神に尋ねる祈り」を覚えました。特に教会でのこの祈りは、特別さを感じています。教会という守られた環境でゆっくりと心を静めていくことができると、神の囁やくような声が聞こえてくるような気がします。五感を通して様々な方法で、何らかのメッセージを与えていただけます。

そして、信仰生活を歩みながら、「行いとしての祈り」を意識するようになっていきました。聖職者の方々のメッセージや教会活動を通して、生きる営為が祈りとなるのではないかと感じるようになりました。出会う人々に、環境に、自分自身にも丁寧に関わること。神の似姿として創造された人間への関わりは、神への関わりでもあると思います。誰でも、神に関わろうとする時は丁寧になるものだと思います。心を込めると思います。

最近では、災害被害や世界で起きている紛争に対しても祈ることが増えました。出会う出会わないに関わらず、世界が良い方向へと向かうように、全ての人の幸せを具体的に祈ることは、祈る私の心の支えにもなります。私が祈ったところで、状況が変わらないことはわかっています。ですが、それでも祈らずにはいられません。その祈りを通して、世の中に関心や自分の価値観に疑問を持つこと、様々な視点を意識し、想像することを覚えます。それが出会う人々へと反映していくようにも感じます。

祈りと共に日々過ごすうちに、教会外での日常生活や仕事においても、祈りが少しずつ意識化されるようになっていったように思います。私は私でしかないので、自分の感情や思いに私を占有されてしまいがちです。ですが、神に、人に向き合う時、それは少し邪魔になります。祈りを知り、意識することによって、自分の思いは一旦脇に置き、御言葉に耳を傾ける態度を取りやすくなったように思います。御言葉に耳を傾けることは、聖書を読むことや、心に響く聖書の言葉を黙想することでもあると思いますが、生活するその環境を、出来事を、目の前の人をそのまま見つめることでもあるように思います。私の思いはともかくとして、そのままを見つめること。

祈りは、人と人を繋ぐ架け橋であるようにも思います。祈ることは関心を持つことでもあり、それは関わりへと、手を差し伸べることへと繋がっていきます。それらは、神への賛美と隣人愛への気づきになっていきました。

この一年の経験を糧に、これからも、隣人愛に誠実に生きてい行けるように、日々祈り続けたいと思います。御国が来ますように。神に感謝。